大阪高等裁判所 昭和55年(ネ)861号 判決 1981年10月23日
控訴人(附帯被控訴人以下、控訴人という。)
国
右代表者法務大臣
奥野誠亮
右指定代理人
緒賀恒雄
被控訴人(附帯控訴人以下、被控訴人という。)
清水洋子
右訴訟代理人
中田明男
外一七名
主文
一 原判決中控訴人の敗訴部分を取消す。
二 被控訴人の請求を棄却する。
三 本件附帯控訴を棄却する。
四 訴訟費用は第一・二審とも被控訴人の負担とする。
事実《省略》
理由
一被控訴人の経歴
被控訴人の経歴(請求原因1の事実)は当事者間に争いがない。
二被控訴人の疾病の発症と経過
<証拠>によると、次の事実が認められ<る。>
1 被控訴人は、昭和四二年二月一日右手首付近にかすかな痛みを覚え、同日大阪市旭区所在の松本診療所で診察を受けたところ、関節ロイマチスという病名により、アリナミン、カンポリジン(鎮痛剤)の投与を受け、痛みは間もなく治つたが、同月中旬ころ、右前腕に鋭い痛みが走り、その二、三日後の朝、洗顔中に右腕の筋肉が引きつつて痛みを覚え、肘を曲げると痛く、筋肉が引きつれて文字を書くのも困難となり、その頃から右肩がひどく凝り始めた。同月二五日頃、記録係の部屋で簡裁への連絡葉書を書いていたとき、右肘から指先に向つて力が抜け、ペンを持つていることができなくなつて取り落し、右手指が冷くなり、脱力感、感覚鈍麻等の症状が現われた。
2 そこで、被控訴人は、同月二八日市立大学病院で受診し、同年三月一日頸椎のレントゲン撮影を受けたうえ、同月八日同病院整形外科の吉田正和医師(以下、吉田医師という。)の診察を受けた。吉田医師によれば、当時の被控訴人の症状は「① 両側の斜角筋群、肩甲棘筋群、背筋群、腕橈骨筋等に硬化、圧痛、② 右橈骨神経幹の前腕中央以下、尺骨神経幹の上腕下三分の一に著名な叩打放散痛、③ 右前腕尺骨側半ばより全指尖にわたる知覚鈍麻、④ 両側上肢神経伸展テスト陽性、⑤ 握力右一九、左一七、⑥ 頸椎レントゲン六方向像いずれも特別な所見なし。」というものであり、同月一五日には「右上肢神経炎 上記により今後約一か月間は重量物の運搬や手を持続的に使用する業務を禁じ、通院加療を行う必要がある。」との吉田医師の同日診断書が地裁に提出され、被控訴人は、吉田医師の投薬や指示を主とする治療と合せて加賀屋診療所の鍼灸治療を受けたが、同月中旬から手のしびれがひどく、肘から下がだるく鉄棒をぶら下げているような感じになり、腕や首を回すことも、箸で豆をつまむこともできなくなつた。
3 被控訴人は、同年四月五日にも吉田医師の診察を受けたが、症状は変らず、同月八日付で同医師から「前回診断時より症状改善せず、業務続行不可と考えられるので向後一ケ月間の休養を要する。」旨の診断書の交付を受けてこれを大阪地裁に提出し、同月一〇日から同年五月六日まで病気休暇をとつて約一か月間郷里の鳥取県の母の下に帰り、母から日常生活の世話を受けて、毎日温泉に入浴し、市立大学病院から交付を受けた薬の服用を続け、玉尾治療院へ鍼灸治療に通い、母に灸をすえてもらい、体操や散歩をしたりして治療に専念するうちに、症状は漸次快方に向かい手の痛みやしびれが消滅した。
4 被控訴人は、同年五月八日から再び出勤し、市立大学病院において吉田医師の治療を受けることになつたが、同医師によると、当時の被控訴人の症状は、「握力向上(右二四、左二二)、橈骨神経幹の叩打放散痛消失、肩凝りと右上肢疼痛の軽減、その他の症状はなお頑固に存在する。」というものであり、同月一〇日付診断書によると、「右上肢神経炎 症状は目立つて軽減しているが尚激しく手指を使うと再燃の恐れがあるので、休業以前のものよりも軽い業務ならば就業してよい。通院加療は続行のこと。」と診断された。
5 被控訴人は、その後ほぼ二週間に一度の割合で市立大学病院に通つて吉田医師の治療を受け、又加賀屋診療所で鍼灸治療を受けていたが、業務中、記録をめくる左手がつかれ、右手も書字に困難を覚え、梅雨に入ると、疲れ易く夜眠れず、朝起きるのがつらく、手指に腫脹感があつて感覚が鈍くなる症状が出たので、夏でも手袋をし長袖の衣服を着て過し症状は少しずつ軽減していたところ、九月の寒くなり出した頃から右足がだるくなり、階段を昇ると足がつり、右上肢の血行障害が現われ、寒さが増すにつれて、字を書いても形が崩れて書けなくなり、肩背の凝り、右下肢の疼痛、感覚鈍麻の症状が出て、就寝中にこむら返りを起し、右坐骨神経炎が現われ、特に同年一二月から翌昭和四三年二月にかけて症状が悪化し、同年二月には背痛が強くなり、同月二一日に撮影した胸椎のレントゲン写真には胸椎に軽度のS字状側彎が認められた。
6 被控訴人は、昭和四三年四月大阪市旭区清水町から同市東住吉区瓜破東の市営住宅に移り、母と弟の三人で暮すようになり、また記録係から統計係に配転となつたが、その後の症状は、部分的には改善されたものの全体として急速には復調せず、六月には肋間神経痛を起して多発性神経炎の様相が強くなり、吉田医師の同年四月一〇日付診断書によると、「頸腕症候群 上記により通院加療継続の要あり、事務機械作業厳禁」と診断された。
同年七月大阪地裁が実施した吉田医師による被控訴人の特別定期健康診断の結果によると、主訴は「疲れやすく夜眠れない。仕事を続けると肩が凝り、右腕がだるくなる」、健康状態は「両側斜角筋、僧帽筋、棘下筋、菱形筋、広背筋、仙棘筋、大胸筋、上腕二頭筋、腕橈骨筋、手根伸筋等に圧痛があり、両側上腕神経叢に圧痛と放散痛がある。いずれも右側の方が著るしい、右尺骨神経幹の上腕下部に叩打放散痛が強く、神経伸展テストは両側正中神経に陽性、斜角筋緊張試験陽性、上肢発汗異常・上肢萎縮・手指部の異常・指のしんせんはいずれもなし、右上肢の反射やや低下、握力右二三、左二五、右手指に軽い知覚障害あり、皮膚画極症陰性、X線写真により頸椎から胸椎にかけて軽いS字状側彎がある。」であつて、「脊柱側彎、頸腕症候群、右上肢神経炎、要治療継続」と判定された。
7 被控訴人は、その後も従前どおりの治療を続け、症状は次第に改善に向かい昭和四四年一一月に大阪地裁が実施した芥川博紀医師による特別定期健康診断の結果では「右上肢の訴えはあるが他覚的所見に乏しい、経過観察D3(平常の生活でよく、医師による直接又は間接の医療行為を必要としないもの)」と判定された。なお、右健康診断の際の被控訴人の主訴は「疲れると腕がだるくなり、肩、背、足が突つ張つて痛い、一定の姿勢が保てない。」であり、握力検査の結果は右左とも二五であつた。
被控訴人は、肩の凝り、頸の痛み、腕のだるさ、腰の冷えというような症状がその後徐々に快方に向かい、昭和四八年頃から普通に仕事もできるようになり、昭和五〇年頃には残業も可能になり、昭和五三年頃からは仕事がきつ過ぎたときや冷房がはいつたときにだるさを感じる等のことがあるものの、それ以外には特別な症状の出ることがなくなつた。
(以下、被控訴人の昭和四二年二月中旬以降の右1ないし7の疾病を本件疾病という。)
三被控訴人の業務内容と業務量
1 <証拠>によると、記録係は訟廷事務のうち事件記録及び事件に関する書類の整理に関する事項、事件記録、裁判原本、事件簿その他の簿冊の保存及び廃棄に関する事項等を分掌していたことが認められ、被控訴人が記録係に配置されたときの同係が更に廃棄係(以下、廃棄係という。)正謄本係、点検係(以下、点検係という。)の三係に分れ、点検係の業務内容が記録の点検、記帳、運搬、整理及び雑務に大別され、記録係には係長以下被控訴人を含めて六人おり、山本書記官と被控訴人の二人が点検係の業務を担当していたことは当事者間に争いがない。
2 <証拠>によると、大阪地裁本庁では各民事書記官室から記録係へ既済記録が送付され、これを廃棄係が受入れて点検係に回し、点検係において、記録を調査点検して訂正すべき事項がなければそのまま記録を倉庫へ納め、訂正すべき事項があればその箇所に附箋を貼付し訂正指示をして地裁民事書記官室へ記録を返戻し、訂正の終つた記録を受入れて倉庫に納めていた(但し昭和四一年一月から第一審事件の完結記録については記録を受入れた廃棄係が直接倉庫へ入れることになり、点検係が調査点検しないことになつた。)こと、高裁へ上訴状が出た場合には、高裁から記録係へ訴訟記録送付請求書(抗告の場合は事件記録送付請求書)が送付され、点検係において上訴記録請求接受簿(抗告の場合は抗告記録請求接受簿)に登載し、事件簿には上訴の提起を付記し、記録が地裁民事書記官室に残つているときは訴訟(事件)記録送付請求書を(既に記録が記録係に送付されているときはその記録も合せて)当該地裁民事書記官室へ回付し、民事書記官室から整理された上訴記録の送付を受けてこれを調査し、訂正すべき箇所があればその箇所に訂正指示を記載した附箋を貼付して地裁民事書記官室へ戻し、訂正の終つた記録を受入れて上訴記録の目録を作成(記録の丁数は地裁民事書記官室で打つ。)し、整理した記録は民事首席の供閲を経て所長の決裁を受けたうえ高裁各民事書記官室に送付していたこと、地裁に上訴状が出た場合には、上訴(抗告)記録請求接受簿にその旨登載し、右と同様の取扱をして所長決裁を受けた後高裁民事訟廷部室へ送付していたが、大部分の上訴状は高裁に出ていたこと、上訴事件については地裁本庁、支部の事件とも記録係(点検係)で処理していたこと、移送決定のあつた記録は点検係において調査し上訴記録とほぼ同じ取扱をして所長決裁を受けたうえ、移送先に送付していたこと、二審事件(地裁が控訴審の事件、以下、二審という。)の完結記録については、点検係において点検整理したうえ、民事首席、所長の供閲を受けた後、葉書で一審簡裁へ返還通知を出し、受取りに来た簡裁係員に返還していたこと、高裁から返還された記録については廃棄係で受入れ、原判決の結果が変更され、かつ、原判決をした裁判官が地裁に在任する場合には点検係においてその裁判官の供閲を経たうえ倉庫に納めていた(抗告記録は原決定をした部に送付した。)こと、最高裁判所から返還された記録は点検係において民訟庶務係から受取り、判決結果を事件簿に記入したうえ高裁から返還された記録と同じ取扱をしていたことが認められ、原審及び当審における被控訴本人の尋問の結果中右認定に反する部分は措信することができない。
3 そして、山本書記官が主として本庁の既済記録(完結記録及び上訴記録)、支部の上訴記録の内容を見て不備な箇所があるか否かを点検し、右箇所があれば各裁判部で訂正してもらうためにその箇所に附箋を貼るという点検作業に従事し、被控訴人がその余の作業、すなわち各種逓付簿等の記帳、上訴及び移送記録の目録作成、管内の各簡裁に対する返還記録の通知葉書の記載、庁内各所への記録の運搬、記録の補修等の整理、点検の補助、その他の雑務に従事していたことは当事者間に争いがない。
4 前記認定のとおり、大阪地裁における点検係の主要な担当事務は、昭和四〇年一二月までは地裁本庁の全既済記録及び支部の上訴記録の点検整理であり、昭和四一年一月からは主として地裁本庁及び支部の上訴記録の点検整理であつたから、昭和四〇年一二月までは地裁本庁の既済件数及び支部の上訴件数、昭和四一年一月以降は地裁本庁及び支部の上訴件数に基いて点検係の業務量を検討する。
<証拠>によると、大阪地裁本庁における昭和三三年から昭和四五年までの各年の民事行政事件の既済件数は別表(一)「大阪地裁本庁民事行政事件の既済事件数」(以下、別表(一)という。)記載のとおりであり、また、大阪地裁分として大阪高裁が受理した昭和三三年から昭和四五年までの上告、控訴、抗告事件数は別表(二)「大阪高裁受理の上告、控訴、抗告事件数(大阪地裁分)」(以下、別表(二)という。)記載のとおりであることが認められ、なお、原審証人山本茂、同林建蔵の各証言によると、昭和四〇年一月一日から手形小切手訴訟事件の特例手続が実施されたけれども、この種の事件は記録も薄く、ほとんど確定するので、点検係にとつてはさほど大きな負担とならなかつたことが認められる(原審における被控訴人尋問の結果のうち右認定に副わない部分は容易に信用することができない。)。
そして、別表(一)によつて、昭和三七年から昭和四三年までの大阪地裁本庁における手形小切手訴訟事件を除いた全既済事件数の前年比の増減率をみると、昭和三八年9.5パーセント増、昭和三九年7.7パーセント増、昭和四〇年11.6パーセント増、昭和四一年4.3パーセント減、昭和四二年八パーセント増、昭和四三年9.7パーセント増であつて、昭和四三年の右全既済事件数は昭和三七年より49.2パーセントも増加しているものの、一方、同表によると、昭和三七年の全既済事件数は昭和三三年より10.3パーセントも減少し、また別表(二)によつて、昭和三七年から昭和四三年までの大阪地裁本庁及び支部の全上訴事件数の前年比の増減率をみると、昭和三八年24.7パーセント増、昭和三九年四パーセント減、昭和四〇年二二パーセント増、昭和四一年7.7パーセント増、昭和四二年1.3パーセント減、昭和四三年1.6パーセント減であつて、昭和四三年の右全上訴事件数は昭和三七年より52.6パーセントも増加しているものの、一方、同表によると、昭和三七年の右上訴事件数は昭和三三年より一六パーセントも減少していることが明らかである。
5 ところで、被控訴人の従事していた作業は(一) 記帳作業、(二) 記録の運搬作業、(三)記録の整理、点検の補助、その他の雑務に大別されるので、これらの作業の内容等について具体的に検討する。
(一) 記帳作業について
<証拠>によると、記録係(点検係)においては記録を送付する際、その記録の所在を明確にするため各種逓付簿等の簿冊に所要事項を記入することになつており、その業務を被控訴人が担当していたのであるが、庁内外逓付簿には逓付月日、事件番号、逓付理由、逓付先等を、上訴訂正逓付簿には逓付月日、事件番号、逓付先を、決裁逓付簿には逓付月日、事件番号、逓付理由、逓付先(事務局)を、上訴記録及び抗告記録の各請求接受簿には接受年月日、接受番号、原審の事件番号、控訴審(抗告審)の事件番号(原審に上訴状が提出されたときはその旨)、当事者名、原審部、控訴(抗告)審部、原審送付年月日等を、二審記録返還簿には返還年月日、原審及び当審の各事件番号、係属部、当事者名、二審結果、返還先をそれぞれ記入(一部はゴム印押捺)していたこと、事件簿には、上訴が提起されたとき、当審の結果、上訴の提起と年月日及び上訴番号を、最高裁判所から記録が返還されたとき、上告結果を記入していたこと、上訴及び移送記録の目録の作成は、訴状、準備書面、口頭弁論調書等重要な訴訟書類の標目が印刷されている目録用紙に当該書類に打たれた記録中の丁数を記入するほか、所要事項を記載する作業で、被控訴人が担当していた記帳作業のうち主要なものであつたことが認められ、被控訴人が目録作成作業を左手で記録を繰りながら右手で目録用紙に記入する方法で行つていたことは当事者間に争いがない。
(二) 記録運搬作業について
被控訴人が本館一階西北部の記録係の部屋から、昭和三八年七月から昭和三九年四月までは、本館及び新館の各二階、三階と調停庁舎二階へ、昭和三九年五月から昭和四一年一一月までは本館二階、三階、新館三階、四階、調停庁舎二階と法円坂分室へ記録を運搬していたことは当事者間に争いがなく、前記甲第二号証、乙第七号証、第九号証、原審証人林建蔵の証言、原審における被控訴本人の尋問の結果及び弁論の全趣旨によると、記録の運搬先として、右のほか、昭和三九年五月から昭和四〇年四月まで陪審庁舎三階、同年五月から右三階の代りに同庁舎二階があり、また、取り壊わされた調停庁舎の代りに、昭和四一年一二月から北新館が、昭和四二年九月から大手前分室がそれぞれ加わつたこと、被控訴人は本件疾病のため昭和四二年三月一七日頃から法円坂分室への記録運搬をやめ(同分室の職員が代りに運搬することになつた。)、同年四月八日頃から記録運搬を全くしなくなつた(被控訴人は、同年五月八日の復職後、記録の運搬を全部免除され、山本書記官が代つて記録を運搬した。)ことが認められる。
そして、被控訴人が法円坂分室を除く運搬先へは、土曜日以外の毎日、両手を前に出して記録を前抱えにする方法で、法円坂分室へは、記録を風呂敷包み二個にして両手で一個宛提げる方法でそれぞれ運搬したことは当事者間に争いがなく、<証拠>によると、被控訴人は、地裁事務局長室へ所長決裁及び供閲の記録を、高裁各民事書記官室(民事訟廷部室を含む、以下、同じ。)へ上訴記録を、地裁各民事書記官室へ訂正のための記録、裁判官供閲記録等を運搬したこと、被控訴人は、通常、地裁事務局長室へは、毎日午前中一回記録を持参し、所長の決裁、供閲の済むのを見計らつて受取りに行き、高裁各民事書記官室へは、毎日午後一回記録を配布し、法円坂分室を除く地裁各民事書記官室へは、毎日午後一回あるいは午前と午後に各一回記録を運搬したが、事件数や仕事の都合により随時、各室へ記録を運搬したこと、法円坂分室への運搬は、原則として毎週火曜と金曜の二回と決め、マイクロバスの巡回時間に合わせ約五分間で同分室各民事部書記官との記録授受を済ませることにしていたが、その往復に約一時間を要したこと、被控訴人は、地裁各民事書記官室へ記録を運搬した際、運搬先の書記官から往々にして訂正済記録等の持ち帰りを頼まれたこと、記録係の部屋からの距離は、地裁事務局長室を往復すると約二〇〇メートル、高裁各民事書記官室を一周すると約二八〇メートル、本館二階の地裁の各民事書記官室を一周すると約二三〇メートル、新館二階、三階の地裁各民事書記官室を一周すると約四〇〇メートル(昭和三八年七月から昭和三九年四月まで)、調停庁舎二階の地裁各民事書記官室を往復すると約六〇〇メートル(昭和三八年七月から昭和四一年一二月まで)、新館三階、四階の地裁各民事書記官室を往復すると約五〇〇メートル(昭和三九年五月から)、陪審庁舎三階(昭和四〇年五月から二階)の民事書記官室を往復すると約二八〇メートル(昭和三九年五月から)あつて、法円坂分室への記録運搬距離は、記録係の部屋から本館玄関までと同分室玄関のバス停車位置から各書記官室まで延約一〇〇メートルあること、被控訴人は、地裁各民事書記官室を一周する場合、昭和四一年一二月以降にあつては、本館二階、陪審庁舎二階、北新館、新館三階、四階、調停庁舎の順序で約一時間をかけて記録を配布・運搬したこと、記録の運搬先として、昭和四一年一二月から調停庁舎がなくなり、北新館が加わつたが、運搬距離や時間の点では従来と大差がなかつたこと、法円坂分室を除く記録の運搬経路には多くの階段を昇降しなければならなかつたことが認められ<る。>
(三) 記録の整理、点検補助、その他の雑務について
<証拠>によると、被控訴人は破損記録の補修、綴り漏れ書類の綴り込み、記録の丁数の点検・整備、山本書記官の点検の手助けとしての郵券計算の確認、消印漏れ印紙の消印、誤字・脱字の指摘等の作業、記録を倉庫に収納し、また必要な記録を倉庫で捜し出す作業、電話・来訪者に対する応対、その他の雑務を担当し、時には同室の職員のためにお茶汲みをしたことが認められる。
なお、<証拠>によれば、被控訴人の記録の点検業務についての関与はさほど多くなかつたことが認められる。
6 次に、被控訴人の業務量を具体的に検討する。
(一) 記帳作業(書字数)について
被控訴人の記帳作業の主要なものは、前記認定のとおり上訴記録の目録作成である(被控訴人は移送記録についても目録を作成したが、当審証人井上卓治の証言によると、移送事件は極めて少なく、一か月当り一件程度であつたことが認められる。)が、別表(二)によつて、被控訴人が点検係の業務を担当した間の最も上訴件数の多かつた昭和四一年をみると、上訴件数は一四三一件(上告・控訴一二九〇件、抗告一四一件)であるから、昭和四一年中にほぼこれに近い上訴記録が点検係に廻り、被控訴人がその目録を作成したものと考えられる。そうすると、右一四三一件の一か月平均件数は一一九件(上告・控訴107.5件、抗告11.7件)であり、一か月の平均勤務日数を二〇日とすると、一日当り平均約六件(上告・控訴5.37件、抗告0.58件)となり、被控訴人は一日当り平均して右に相当する目録を作成したことになるところ、当審証人井上卓治の証言及びこれにより真正に成立したものと認められる乙第四四号証の一、二によると、上告・控訴記録の一件当りの目録の平均字数は七六字(一般文字七、算用数字六九)、ゴム印の捺印0.5回、抗告記録の一件当りの目録の平均字数は一二四字(一般文字七二、算用数字五二)、ゴム印の捺印一七回であることが認められるので、被控訴人の一日当り平均目録作成のための書字数は約四八〇字(一般文字約八〇、算用数字約四〇〇)、ゴム印の捺印回数は約一三回となる。
また、別表(二)によると、昭和四二年は、上訴件数一四一二件(上告・控訴一二二一件、抗告一九一件)であつて、昭和四一年と大差がないので、被控訴人の目録作成のための書字数は昭和四一年と同程度であり、昭和三八年から昭和四〇年までは上訴件数が昭和四一年よりも少なかつたので、右いずれの年も被控訴人の目録作成のための書字数は昭和四一年より少なかつたものと考えられる。
被控訴人は、その他の記帳作業として移送記録の目録作成(一か月平均一件)、上訴(抗告)記録請求接受簿の記入、記録の移動に伴う各種逓付簿への記入、簡裁への連絡葉書の記載、事件簿への記入等の記帳作業に従事していたことは前記認定のとおりであるが、<証拠>によると、右各作業の書字数はいずれの年においてもそれ程多くなかつたことが認められる。
(二) 記録運搬作業(運搬量)について
(1) 昭和四一年の運搬量
被控訴人が昭和四二年三月一七日頃から法円坂分室の、同年四月八日頃からすべての記録の運搬をしなくなつたことは前記認定のとおりであるが、昭和四二年の点検係としての業務内容は、他の職員によつて行われることになつた法円坂分室の記録運搬作業をも含めると、昭和四一年と大差なく行われていたのであるから、昭和四二年の記録運搬量について同年と昭和四一年との上訴件数を対比することにより、被控訴人の昭和四一年の記録運搬量を推認することとする。
<証拠>によると、記録一件の平均重量は0.55キログラムであること、昭和四二年三月、同年四月、同年九月、同年一〇月の地裁事務局長室、高裁各民事書記官室、法円坂分室を除く地裁各民事書記官室、法円坂分室への各記録運搬量、一日当り(但し、一か月の平均勤務日数を二〇日として計算した。)の平均記録運搬量、最も多く運搬した日の記録運搬量は次のとおりであること(但し、<証拠>には、三月分、四月分のうち、上訴記録訂正逓付簿によつて送付された件数(地裁各民事書記宮室への運搬分)が除外されているので、右除外された件数を、別表(二)により算出した同年の平均月間上訴事件数117.66件に当審証人井上卓治の証言により認められる上訴記録の補正率五〇パーセントを乗じて得
ア 月間記録運搬量(括弧内は右但し書加算前の数字)
三月 四月 九月 一〇月
(件) (件) (件) (件)
地裁事務局長室 一〇六 一七四 一六〇 一三〇
高裁各民事書記官室 八〇 一四七 一三五 一一〇
法円坂分室を除く地裁各民事書記官室 一一〇(八八) 一四四(一一二) 一八三 一五三
法円坂分室 一七四(一三八) 一一八(九二) 一〇二 一二一
計 四七〇 五八三 五八〇 五一四
イ 一日当りの平均記録運搬量(括弧内は重量・キログラム)
三月 四月 九月 一〇月
(件) (件) (件) (件)
地裁事務局長室 5.3(2.9) 8.7(4.7) 8.0(4.4) 6.5(3.5)
高裁各民事書記官室 4.0(2.2) 7.3(四) 6.7(3.6) 5.5(三)
法円坂分室を除く地裁各民事書記官室 5.5(三) 7.2(3.9) 9.1(五) 7.6(4.1)
法円坂分室 12.4(6.8) 9.8(5.3) 6.3(3.4) 8.6(4.7)
但し、法円坂分室は、一回当りの数字(運搬回数三月一四回、四月一二回、九月一六回、一〇月一四回)であり、一か月の運搬回数八回(週二回)として計算すると、三月21.7件(11.9)、四月14.7件(八)、九月12.7件(6.9)、一〇月15.1件(8.3)である。
ウ 最も多く運搬した日の記録運搬量(括弧内は重量・キログラム)
三月 四月 九月 一〇月
(件) (件) (件) (件)
地裁事務局長室 一六(8.8) 二一(11.5) 一八(9.9) 一四(7.7)
高裁各民事書記官室 一四(7.7) 二二(12.1) 二〇(一一) 一二(6.6)
法円坂分室を除く地裁各民事書記官室 不明 不明 二四(13.2) 一八(9.9)
法円坂分室 不明 不明 一八(9.9) 二〇(一一)
た五八件と推定し、右五八件を、右各月の法円坂分室を除く地裁各民事書記官室と法円坂分室への各運搬件数に、それぞれ比例配分して加算した。)が認められる。
ところで、別表(二)によると、昭和四二年の上訴件数は一四一二件、昭和四一年の上訴件数は一四三一件であり、両年の右事件数はほぼ等しいので、昭和四一年一月から昭和四二年二月までの間に運搬された記録量も右ア、イ、ウと同程度であつたことが推認される。
しかし、右のうち、 ウ 最も多く記録を運搬した日の記録運搬量(法円坂分室を除く。)については、昭和四二年四月八日頃以降男子職員である山本書記官のペースで運ばれたものであつて、女子職員である被控訴人にはそのまま当てはまらないし、また、原審における被控訴本人の尋問の結果(一部)及び弁論の全趣旨によると、被控訴人は自己のペースに合せて運搬の量や回数を決めていたことが窺われるから、法円坂分室以外の運搬回数は一日一回とは限られなかつたことが考えられる。
以上によれば、被控訴人の一日当りの運搬量は、日によつてばらつきがあるが、法円坂分室(週二回)については平均約8.8キログラムであり、また、法円坂分室を除く他の運搬先については、各運搬先につき、平均約3.7キログラムであつたことが推認される。
(2) 昭和四〇年の運搬量
次に、別表(二)によると、昭和四〇年の上訴件数は一三二八件であつて昭和四一年よりも一〇三件少ないが、昭和四〇年までは地裁本庁の第一審事件の完結記録についても点検が行われていたことを考慮する必要があり、別表(一)(二)によると、昭和四〇年の地裁本庁の第一審事件の既済件数は八六六五件、同年の地裁の控訴件数は一一四一件であるから、控訴件数中の地裁支部の事件(約一〇〇件と推定する。)を考慮に入れれば、地裁本庁の第一審事件の完結記録は約七六二四件あつたことが推認され、この約七六二四件の記録が点検の対象となり、このうち訂正を必要とするものが、被控訴人の手によつて地裁各民事書記官室に運搬されたことになるが、当審証人井上卓治の証言によれば、昭和四〇年頃の大阪地裁の確定記録の補正率は約五パーセントであつたことが認められる。
そこで、昭和四〇年の第一審事件の完結記録(約)七六二四件について補正率を五パーセントとみて補正件数を概算すると、一年間で三八一件となり、右三八一件について、一か月の平均勤務日数を二〇日として一日当りを算出すると、件数は1.58件、記録の重さは0.86キログラム(一件の重さを0.55キログラムとする。なお、この中には手形小切手事件の記録が含まれているので、実際はこれよりも軽い。)となるから、被控訴人は、昭和四〇年には右に相当する第一審事件の完結記録を地裁各民事書記官室へ補正のため運搬したことになる。一方、昭和四〇年は昭和四一年と比べると、前記のとおり上訴件数が一〇三件少なく、右一〇三件について、一か月の平均勤務日数を二〇日として一日当りを算出すると、件数は0.43件、記録の重さは0.23キログラム(一件の重さを0.55キログラムとする。)となるから、被控訴人は、昭和四〇年には上訴記録を、昭和四一年よりも一日当り、地裁各民事書記官室へ訂正のため0.21件(上訴訂正記録の補正率を五〇パーセントとする。)、事務局長室へ決裁のため0.43件、高裁各民事書記官室へ送付のため0.43件それぞれ少なく運搬したことになる。
したがつて、被控訴人の昭和四〇年の記録運搬量は昭和四一年度と比べて余り異ならないことが明らかである。
(3) 昭和三九年、昭和三八年の各運搬量
別表(一)(二)によると、昭和三九年の既済件数は六五八〇件(第一審事件六一七五件)、上訴件数は一〇八八件であり、昭和三八年の既済件数は六一〇八件(第一審事件は五七四四件)、上訴件数は一一三四件であつて、いずれも昭和四〇年よりも少なく、したがつて被控訴人の記録運搬量も昭和三九年、昭和三八年は昭和四〇年に比べて少なかつたことが明らかである。
(三) 記録の整理、点検の補助、その他の雑務について
<証拠>によると、記録運搬作業とその他の作業の割合は前者の方がやや比重が大きかつたことが認められ、右各証言及び原審証人古田靖子、同津田末太郎の各証言によると、昭和四〇年以降既済事件、上訴事件とも増加したので、点検係は昭和四一年一月から地裁本庁の第一審事件の完結記録につき調査点検しないという業務の軽減措置がとられたものの、被控訴人は前任者よりも多忙で、記録運搬のほか、記録の補修、点検、目録作成、雑務等種々の作業を織り交ぜて、残業まではしなかつたものの、時には昼休み中も執務するなどして一日中忙しく働いていたことが認められる。
四被控訴人の作業環境
記録係が事件係と同室で、本館一階の北西部に位置し、通風採光とも必ずしも良好とはいえない状況にあつたことは当事者間に争いがなく、<証拠>によると、記録係の部屋は、記録倉庫と隣り合わせ、窓が西側に四か所あるだけで、その窓の外側が庇を設けた駐車場になつているため、風通しの悪く薄暗い部屋であつて、冬は暖房の利きも余り良くなく、夏は暑く扇風機も書類が飛ぶため余り利用できない状況ではあつたものの、作業環境が特に劣悪という程のものではなかつたことが認められ<る。>
五本件疾病と業務との因果関係
1 <書証>及び当審証人石田肇の証言によると、頸肩腕症候群は、昭和四四年一〇月二九日労働省労働基準局長通達「キーパンチャー等手指作業に基づく疾病の業務上外の認定基準について」(昭和四四年基発第七二三号)によつて、「頸部、上腕、前腕、手指に慢性の疼痛、しびれ感・だるい感じ、肩こり、知覚鈍麻、知覚過敏、異常知覚、手指の冷感、橈骨動脈拍の変化等のうち、疼痛に加うるに、他の一つまたは数種の症状を合併し、それらの症状が頭部、項部、肩、上肢のみに限局して存在するものに対して便宜上与えられた名称と理解される。」と定められていたが、その後医学的な面での研究開発が進展したことや頸肩腕症候群としての労災保険の給付請求者の職種が多岐にわたつてきたことから検討が行われた結果、昭和五〇年二月五日別紙内容の労働省労働基準局長通達「キーパンチャー等上肢作業にもとづく疾病の業務上外の認定基準について」(昭和五〇年基発第五九号)が出されたこと、右通達は主として頸肩腕症候群に関するもので、頸肩腕症候群の定義、性格につき見解の分れている現時点において、医学的に解明されている範囲での集約という形で、行政的に、その定義を明確にしたものであることが認められる。
2 ところで、裁判所職員の公務上の災害に対する補償については裁判所職員臨時措置法により国家公務員災害補償法が準用され、国家公務員災害補償法に基づいて制定された人事院規則(職員の災害補償)第二条は、「公務上の災害の範囲は公務に起因する負傷、廃疾及び死亡並びに別表第一に掲げる疾病とする。(昭和五三年一〇月五日施行)」と規定し、その別表第一、三は「身体に過度の負担のかかる作業態様の業務に従事したため生じた次に掲げる疾病及びこれらに付随する疾病」とし、その4には「せん孔・タイプ・電話交換・電信等の業務その他上肢に過度の負担のかかる業務に従事したため生じた手指のけいれん、手指、前腕等のけん、けんしよう若しくはけん周囲の炎症又は頸肩腕症候群」を掲げているが、公務上の疾病と私企業における業務上の疾病とは本質的な差異はなく、労働基準法施行規則第三五条には右人事院規則と同様の規定がおかれているので、前記基発第五九号通達を基準として、被控訴人の頸肩腕症候群(本件疾病)と業務との因果関係を検討してみる。
被控訴人の点検係における前記業務のうち、記帳、記録の整理等の作業は、一般的な事務作業であるうえ、その間に運搬や雑務が混入する混合作業であつて、長時間同一作業を続けることがないこと、記録の運搬作業は、法円坂分室以外の場所へは両手を前に出して記録を前抱えに持ち、法円坂分室へは記録を包んだ風呂敷包を一個宛両手にぶら下げた状態で歩行して運搬する作業であつて、記録係の部屋から運搬先への距離は前記三5(二)認定のとおりであるところ、右の事実と前記基発第五九号通達の内容及び原審証人平林冽、当審証人石田肇の各証言によると、右通達の動的筋労作とは打鍵作業のように手指を繰り返し反覆するような作業を指し、静的筋労作とはベルトコンベアの流れ作業や顕微鏡下の作業のように上肢の一定の肢位や頸部の前屈位を持続的に強制させられる作業を指すこと、被控訴人の右業務は、種々の作業を織り交ぜて行ういわゆる混合職種であるから、そのような作業態様のなかでの書字、記録を繰ること、ナンバーリングを打つこと等は動的筋労作を主とする業務とはいえず、また、記帳、記録整理等の際に多少前かがみになつて頭部を前に保つたり、記録を繰る際に肘を宙に浮かせることがあつても、その姿勢は作業によつて強制させられるものではないので静的筋労作ともいえず、さらに、記録の運搬作業は運搬姿勢、運搬距離、これに要するとみられる時間等からみて持続的に上肢を一定の肢位に保持する作業とはいえないことが認められ、原審証人馬場三郎、当審証人前田勝義、原審及び当審証人吉田正和の各証言中右認定に反する部分は採用することができない。
判旨そうすると、被控訴人の点検係における作業の態様は右通達の定めるものとは異なるから、右通達を基準として被控訴人の頸肩腕症候群(本件疾病)と業務との因果関係を認めることができない。
3 次に、右通達によらないで、被控訴人の本件疾病と業務との間に相当因果関係が認められるか否かについて判断する。
先ず、被控訴人は、被控訴人の業務が過重であつた旨主張するので、この点について検討するに、被控訴人の業務の作業態様は右に述べたとおりであつて、記録運搬作業とその他の作業との割合は前者の方がやや比重が大きかつたこと、被控訴人は時には昼休みに仕事をしたものの残業はしなかつたこと、運搬記録の一回当りの平均重量は、運搬量の最も多かつた昭和四〇年においても、法円坂分室(週二回)へは一〇キログラム、それ以外の場所へは五キログラムを超えないことのほか、記録係の部屋から運搬先までの距離、運搬の回数や方法、記帳作業の内容や記録目録作成のための書字数等はいずれも前記認定のとおりであるところ、右の事実と原審証人平林冽、当審証人石田肇の各証言によると、被控訴人の記録の整理等の作業は、上肢に負担をかけるという程のものではなく、むしろ雑務や運搬作業と混合してなされていたから作業配分上非常に適当であつたこと、記録の運搬作業は、前記重量のほか、運搬距離、回数や方法からすると、運搬経路における階段の昇降を考慮しても上肢を繁用する作業態様とはいえなかつたことが認められ(原審証人馬場三郎、当審証人前田勝義、原審及び当審証人吉田正和の各証言中右認定に反する部分は採用することができない。)、以上の事実によれば、被控訴人の業務は一般事務作業者の日常の職場活動から特に掛け離れていたものではなく、その一日の作業総量は一般の事務作業者とほぼ同様であり、運搬記録の重量や運搬距離も通常人が日常生活のうえで物を運搬する場合と比較して特に過大とはいえないことが明らかであるから、被控訴人の業務が全体として過重であつたとは認めることができない。
(なお、前記甲第二号証の付属資料には、山本書記官の供述を録取したものとして、被控訴人の業務量は記帳作業だけでも結構一人前に近い仕事量に達していたのではなかろうかと思つている旨の記載があり、また、原審証人山本茂は右と同旨の証言をするが、右記載及び証言は前記三6(一)の認定事実に照して採用することができない。)
次に、被控訴人は被控訴人の執務していた記録係の部屋は作業環境が劣悪であつて本件疾病の原因となつた旨主張するが、右部屋の作業環境は前記四認定のとおり良好とはいえないものの特に劣悪とまではいえず、被控訴人の本件疾病の発症原因になつたとは認めることができない。
また、被控訴人は、被控訴人の身長と机と椅子との高さの不均衡が本件疾病の発症原因となつた旨主張し、当審証人前田勝義はそのような可能性のあることを証言するが、被控訴人は前記三認定のとおり記録運搬や雑務のため、記録係の他の者よりも席を離れることが多いのであつて、右のような不均衡のために同係の他の者が本件疾病と同じ症状を起したことを認めるに足りる証拠はないから、被控訴人の右主張は採用することができない。
そして、前記二認定の被控訴人の本件疾病の発症と経過の事実、<書証>、原審証人平林冽、当審証人石田肇の各証言及び原審における被控訴本人の尋問の結果(一部)によると、被控訴人は、原判決事実第二、三4(一)(1)記載のとおり、肩痛症、ノイローゼ、右肩打撲症、その他の疾病で度々治療を受けていたこと、本件疾病の症状は、作業を軽減しても一向に改善することもなく、昭和四二年秋から業務と直接関係のない下肢症状すなわち右下肢の疼痛、感覚鈍麻、こむら返りの症状が現われ、右坐骨神経炎の症状も出、昭和四三年四月統計係に移つた後も同年六月には肋間神経痛の症状が現われる等急速な改善は見られず、業務との相関がみられないこと、被控訴人の病訴の中に心理的要因と考えられるものが含まれていることが認められ、原審証人馬場三郎、当審証人前田勝義、原審及び当審証人吉田正和の各証言並びに原審における被控訴本人の尋問の結果中右認定に反する部分は採用することができない。
判旨ところで業務と疾病との間に相当因果関係があるというためには、業務が疾病のほとんど唯一の原因であることを要するものではなく、他に競合する原因があつてもその業務が相対的に有力な原因であれば足りるが、業務がその疾病の単なる条件、すなわちその引金になつたにすぎない場合には、両者の間の因果関係を否定すべきものと解するのが相当であるところ、これを本件についてみるに、以上の認定判断を総合勘案すると、なるほど本件疾病は、被控訴人が点検係へ配属されてからその発症をみたものではあるが、そこでの被控訴人の作業態様は一般的にみて頸肩腕症候群の惹起原因となるものではなく、またその作業量も決して過重なものではないうえ、配置換えにより被控訴人が他の仕事に従事するようになつてからも容易にその症状が消えなかつたものであるから、点検係における業務が本件疾病発症の引金になつたことは窺われるけれども、その有力な原因とは認めることができず、本件疾病はむしろ被控訴人の身体的ないし精神的素因によるものである疑いがあり、結局被控訴人の業務と本件疾病との間には相当因果関係が認められないものというべきである。
六被控訴人の債務不履行の主張に対する判断
判旨1 国は、国家公務員(以下、公務員という)に対し、国が公務遂行のために設置すべき場所、施設もしくは器具等の設置管理又は公務員が国もしくは上司の指示のもとに遂行する公務の管理にあたつて、公務員の生命及び健康等を危険から保護するよう配慮すべき義務を負つているものと解すべきであり、右の安全配慮義務の具体的内容は当該公務員の職種、地位及び安全配慮義務が問題となる当該具体的状況等によつて異なるべきものである(最高裁昭和五〇年二月二五日第三小法廷判決 民集二九巻二号一四三頁参照)から、業務自体が公務員の生命及び健康等に危険を伴うものであれば、国は、当然にその危険を回避する措置をとらなければならないが、一般的にそのような危険を伴わない業務の場合には、危険が予想されるような特段の事情のある場合を除き、通常予想し得ないような危険まで防止すべき措置をとる必要はないと解するのが相当である。
2 これを本件についてみるに、被控訴人は一般事務作業に従事するものであつて、頸肩腕症候群等の職業性疾病、その他の疾病の発症の予想されるような種類の業務に従事するものではなく、その業務は前記認定のとおり右のような疾病の発症を招くような過重なものではなかつたし、他に本件疾病の発症を予想できるような特段の事情も認められないので、裁判所において本件疾病の発症を予防するために特別綿密な健康管理をしたり、早期発見のための特別な措置を講じる必要はないというべきである。よって、裁判所が本件疾病の発症を予防するための措置及び早期発見のための措置をとらなかつたことを理由とする被控訴人の主張は失当である。
3 次に、被控訴人の、① 被控訴人が昭和四二年二月二八日通院後管理者にその旨を報告し業務軽減を要求したにもかかわらず、地裁が診断書の提出がない限り応じられないとして何らの措置もとらなかつた、② 同年三月一七日に吉田医師作成の前記同月一五日付診断書をもとに行われた民事首席交渉の結果も単に法円坂分室への運搬免除という不十分な措置であつた、③ 被控訴人は同年五月八日の復職後初めて記録運搬が免除されたが、地裁が被控訴人の症状や記帳作業の影響等について吉田医師の指示を求めることをしないで従前どおり記帳作業を継続させた、④ 被控訴人は同年三月一七日、同年五月一〇日に配転の申出をし、その希望を持ち続けているのに、地裁が昭和四三年四月に至るまでその実行をしなかつたことは不適切な措置であつた旨の主張について判断するに、原審における被控訴本人の尋問の結果によると、被控訴人は、昭和四二年二月二八日市立大学病院で受診した後分会を通じて管理者にその旨報告し、業務量の軽減を求めたが、管理者が「診断書の提出がなげれば」としてこれに応じなかつたことが窺えるけれども、管理者としては診断書等により実情を確認しない以上、被控訴人の要請に対処する乙とができないのは当然であつて、右措置を不適切ということができず、原審証人林建蔵の証言、原審における被控訴本人の尋問の結果(一部)及び弁論の全趣旨によると、分会は昭和四二年三月一七日民事首席と被控訴人同席のうえ、吉田医師作成の前記同月一五日付診断書をもとにして、被控訴人に重い物を持たせないこと、重量物を運搬しなくてもよい職場へ配転することを求める交渉をしたところ、民事首席が被控訴人に対し最も重いとみられる法円坂分室への記録運搬を免除し、その他の記録運搬は一回分の運搬量を減らし軽くして回数をふやして運搬するように指示したこと、被控訴人は、昭和四二年五月一〇日頃、吉田医師作成の前記同月一〇日付診断書を民事首席のもとに提出し、分会を通じて記録運搬業務を中心に業務軽減の交渉をした結果、記録運搬業務を全部免除されたことが認められ(原審における被控訴本人の尋問の結果中右認定に副わない部分は採用することができない。)、右事実によれば、管理者は吉田医師作成の右二通の診断書の記載と被控訴人(患者として同医師の指示を当然理解している筈である。)及び分会の説明や要望を聴き、その趣旨に副つて被控訴人の業務を軽減したのであつて、被控訴人の右業務軽減後の業務が本件疾病の増悪に作用したかどうかの判断をまつまでもなく、地裁のとつた右業務軽減措置が不十分であるとはいうことができないし、また、地裁としては右のように業務軽減措置を講じたほか、原審及び当審における被控訴本人の尋問の結果によつて認められるように地裁としては、被控訴人に対し通院の便宜を十分に計り、速記官やタイピストに対してのみ実施している特別健康診断の受診者の中に被控訴人を加えるなどして被控訴人の健康管理に十分注意を払つているのであつて、被控訴人の希望に副つた配転を直ちに実行しなかつたからといつて不適切な措置とはいうことができないから、裁判所が被控訴人の本件疾病の増悪を防止する措置を怠つたことを理由とする被控訴人の右主張もまた失当である。
七被控訴人の不法行為の主張に対する判断
1 本件疾病の発症や増悪を防止すべき義務に違反したとの主張に対する判断は債務不履行の主張に対する判断と同一であり、被控訴人の右主張は理由がない。
2 迅速な認定、審査手続をなすべき義務に違反したとの主張について判断するに、公務員の災害補償に対する認定、審査手続は迅速になされなければならないが、本件事案の特殊性を考慮すると、被控訴人の災害補償に関する認定、審査手続に六年余の期間を要したことをもつて社会通念上著るしく遅延したものとは認めることができないから、被控訴人の右主張もまた理由がない。
八結論
そうすると、被控訴人の請求はその余の点について判断するまでもなくすべて失当として棄却すべきところ、これと判断を異にする原判決は相当でなく、本件控訴は理由があるから民訴法三八六条により原判決中控訴人の敗訴部分を取消して被控訴人の請求を棄却し、本件附帯控訴は理由がないから同法三八四条によりこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき同法九六条、八九条を適用して主文のとおり判決する。
(仲西二郎 長谷喜仁 下村浩藏)
別表(一) 大阪地裁本庁民事行政事件の既済事件数
(昭和)年
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
44
45
番一審
通常訴訟
5805
5747
5515
5435
5168
5651
6062
6796
6493
7151
7397
7173
7553
手形・小切手
-
-
-
-
-
-
-
1726
3064
4082
4180
2992
2497
行政
92
58
65
50
58
93
113
143
141
97
633
116
134
控訴審通常
301
329
329
325
302
308
343
331
317
268
235
183
144
再審
2
10
3
3
2
6
4
6
5
3
6
2
7
飛上告・上告
18
29
48
40
44
50
58
68
67
66
51
43
47
計
6221
6173
5960
5853
5575
6108
6580
9070
10087
11667
12502
10509
10382
別表(二) 大阪高裁受理の上告、控訴、抗告事件数
(大阪地裁分)
年
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
44
45
上告
10
19
33
30
38
39
49
62
60
56
43
41
22
控訴
921
836
800
801
754
981
901
1141
1230
1165
1132
990
913
上告、控訴計
931
855
833
831
792
1020
950
1203
1290
1221
1175
1031
935
抗告
152
178
155
128
117
114
138
125
141
191
213
300
216
上告、控訴抗告計
1083
1033
988
959
909
1134
1088
1328
1431
1412
1388
1331
1151
(別紙)
キーパンチャー等上肢作業にもとづく疾病の業務上外の認定基準について
(昭和五〇・二・五 基発第五九号 労働省労働基準局長より都道府県労働基準局長宛)<省略>